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静岡地方裁判所沼津支部 昭和59年(ワ)423号 判決

主文

一  被告は、原告に対し、金一五八三万六三五七円及びこれに対する昭和五九年一一月一八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを五分し、その二を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

四  この判決は、原告勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。但し、被告が金八〇〇万円の担保を供するときは、右仮執行を免れることができる。

理由

【事 実】

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金二七四八万四八二七円及びこれに対する訴状送達の日の翌日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

3  仮執行免脱宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一)原告は、昭和二八年三月五日生まれの男性であり、昭和五〇年三月日本大学工学部電気工学科を卒業し、その後家業の食品販売業に従事している者である。

(二)被告は静岡県熱海市東海岸町一三に国立熱海病院(以下「本件病院」という。)を開設し、医師梅原誠一(以下「梅原医師」という。)を雇用している。

2  被告の債務不履行

(一)原告は、昭和五四年八月ころ、左耳下の異常に気づき、同年一一月二八日本件病院で梅原医師の診察を受けた結果、耳下線腫瘍と診断され、早期の手術を勧められた。

(二)そのため原告は、被告と同年一二月一〇日耳下腺腫瘍の摘出手術(以下「本件手術という。)を目的とする診療契約(以下「本件契約」という。)を締結し、同日本件病院に入院した。

(三)本件手術は、同月一三日午後一時三〇分ころから本件病院において、被告の履行補助者である梅原医師の執刀により行なわれ、約四時間を要して終了した。

(四)ところが、本件手術の後、原告に、左眼が開いたままになつたり左顔面が麻痺したりする症状が出現し、電気療法等の種々の治療を受けたものの回復しなかつたので、原告は昭和五五年七月一日昭和大学旗の台病院で診察を受けたところ、顔面神経が切断されていることが判明した。

(五)原告は、現在、顔面神経の切断によつて左顔面の神経が麻痺し、そのため、兎眼性角膜炎に陥つており、前額部のしわが寄らないうえ、左眼は閉瞼不能、鼻唇溝なし、開口で右へ傾く状態にある。

(六)梅原医師には、本件手術を行なうに当たり、顔面神経の所在位置を確知して右神経を切断しないように充分注意すべき義務があつた。しかるに梅原医師は右神経の所在位置を確知しないまま漫然と右手術を行なつたために右神経を切断してしまつた。

(七)このことは次の事実からしても明らかである。昭和五四年一二月一九日、原告の母親が梅原医師に本件手術の経緯につき説明を求めたところ、梅原医師は顔面神経の所在を図解し、「耳下に神経はない。」、「本件手術中に顔面神経は切断しておらず問題ない。」旨答えた。ところが実際は同神経は耳の下から出ており、それが数本に分かれているのである。

(八)梅原医師は、本件手術後原告に顔面神経麻痺の症状が出ていたのであるから、顔面神経の切断を疑い、直ちに筋電図検査をするなどして右神経の切断の有無を確かめ、早期に原告に神経縫合手術を受けさせる義務があつた。しかるに、梅原医師は右神経の切断に全く気づかず、そのまま放置したため、原告に神経縫合手術を受ける機会を失わせ、原告の前記の顔面麻痺症状が固定してしまつたのである。

3  原告の損害

(一)逸失利益 金一九九八万六二二七円

(1)原告は顔面神経を切断されたため、前2の(五)記載の症状が明白に後遺症として残つている。これらの症状は自動車損害賠償保障法施行令別表の後遺障害「一眼のまぶたに著しい運動障害を残すもの」、「男子の外貌に著しい醜状を残すもの」及び「局部に頑固な神経症状を残すもの」に該当し、この三者が併存する本件においては、原告の労働能力喪失率は二七パーセント(第一〇級)である。原告の得べかりし収入は賃金センサス全国性別・年令階級別平均給与額表大卒男子労働者の同年齢の各年間給与額を下回らないと認められるので、これを年次別に示すと次のようになる。

昭和五五年 金二八〇万九三〇〇円

昭和五六年 金二九四万九八〇〇円

昭和五七年 金三〇六万四六〇〇円

昭和五八年 金三〇六万四六〇〇円

そこで右合計の二七パーセントにあたる金三二〇万九八四一円が右の期間の逸失利益となる。

(2)そして昭和五九年以降も、原告が六七歳に達するまでの就労可能な三六年間は二七パーセントの労働能力の喪失が継続するので、昭和五八年の平均給与額を基準としホフマン式によつて中間利息を控除して損失額の現価を計算すると金一六七七万六三八六円となる。

計算式

年間給与額 喪失率 ホフマン係数

306万4600円×0.27×20.275=1677万6386円

(二)慰謝料 金五〇〇万円

前述のとおり、原告は前途ある青年でありながら、前記後遺症のため就職、結婚も断念するなどその蒙つた精神的苦痛は他人にはうかがい知れない程多大なもので、この精神的苦痛を慰謝するためには少なくとも金五〇〇万円が相当である。

(三)弁護士費用 金二四九万八六〇〇円

被告は、原告の損害賠償請求につき何らの誠意を示さないので、原告は被告に対し損害賠償の請求を求める本訴提起を余儀なくされ、本訴の提起・追行を原告訴訟代理人弁護士橋本正夫・同田中晴男に依頼し、その弁護士費用(着手金および報酬)として請求額の一割に相当する金二四九万八六〇〇円を支払う旨の約束をした。

4  結論

よつて、原告は被告に対し、債務不履行に基づく損害賠償金二七四八万四八二七円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の(一)及び(二)の事実は認める。

2  請求原因2の(一)ないし(三)の事実は認める。同(四)のうち、昭和五四年一二月一四日に原告の左眼が開いたままであつたこと及び顔面神経が切断されていることは認める。原告が昭和五五年七月一日昭和大学旗の台病院で診察を受けたことは不知。その余の事実は否認する。同(五)のうち、原告の顔面神経が切断されていることは認め、その余の事実は不知。同(六)のうち、梅原医師が顔面神経の所在位置を確知しないまま漫然と本件手術を行なつたことは否認し、このことが原因となつて右神経を切断してしまつたことは争う。その余は争う。同(七)のうち、「耳下に神経はない。」旨答えたことは否認し、その余の事実は認める。同(八)の事実は否認し、注意義務については争う。

3  請求原因3の(一)及び(二)については争う。同(三)の事実については不知。

三  被告の主張

1  本件手術の実施について

(一)梅原医師は専門こそ腹部外科を主とする一般外科であるが、本件手術以前に耳下腺腫瘍の手術をしたことは一〇例位あり、文献等によつて当然顔面神経の所在位置は心得ていたものである。加えて本件手術直前においては、自己が実施する手術について、手術部位、手術方式、神経、血管の組織・走行等について十分に予習・検討を加えた上、手術に臨んでいるのであつて、梅原医師が顔面神経の存在位置について無知のまま本件手術を実施したとする証拠は何ら存在しない。

(二)原告の左耳介後方に位置した本件腫瘤は、手術前の臨床所見によつて悪性の疑いの強い耳下腺腫瘍と診断されていた。そして、摘出手術を開始して直接観察したところによつても右腫瘤は健常耳下腺に覆われてその最下端内側から発し、下顎部内側に深く潜り込んだ大きな腫瘤であり、しかも周囲組織との癒着が強く、悪性を強く疑わせるものであつた。梅原医師は、神経組織等が損傷されていないことを確認しながら本件腫瘍を周囲からはく離してゆき、最内側においては、可能な限り重要神経及び血管の損傷を避けうるよう手指を用いて注意深くはく離しているのである。かような手術実施状況からみても、梅原医師が顔面神経の所在位置について無知であつたとはとうてい考えられない。

(三)原告は、梅原医師が術後原告の母親に原告の術後の状況について説明した際に用いた図をとり上げて、梅原医師が顔面神経の所在位置を知らなかつたことの証拠であると主張するようであるが、右図はその当時原告の左眼が閉じない状態にあつたことで、原告の両親に対し、眼瞼部をつかさどる顔面神経の所在位置を特に示したものであつて、この図のみをもつて梅原医師が顔面神経の所在位置について無知であつたとすることは当たらない。

(四)本件手術操作中に判明したのであるが、下顎骨後部へ発育したものとして、顔面神経下顎縁枝の走行にもつとも注意をはらいながら切除をした本件腫瘤は、結局耳下腺峡部にできた悪性の疑いが強い耳下腺腫瘍であつたもので、しかも周囲組織との癒着が強く、その腫瘤のみを摘出することは極めて困難であつた。梅原医師は前記のとおり細心の注意を払つて本件手術を実施したが、腫瘤自体を切開・分割できないという制約があつたので、結果的には顔面神経を含んだ腫瘤を切除することになつたものである。このことは、腫瘍が良性のものである場合でも、癒着があつたり、腫瘍が大きく、かつ摘出手術に困難な位置にある場合にはやむを得ないことなのである。

2  本件手術後の措置について

(一)梅原医師は本件手術終了後、摘出した本件腫瘤を肉眼で、詳細に、重要な神経がそれに巻き込まれていないか、付着していないかを観察して顔面神経の切断の痕跡がないことを確認したのである。梅原医師は、本件腫瘤の上部が耳の穴のすぐうしろの乳様突起の下から出ている顔面神経の根幹部に接している可能性があることは十分認識していたので、摘出した本件腫瘤に顔面神経が巻き込まれていないことを確認して神経損傷は避けられたと判断したのであつて、その後、顔面神経挫傷の事実が明らかになつたわけであるが、本件手術直後段階での梅原医師の右措置及び判断には何ら誤りはなかつたものである。

(二)また、梅原医師は、前述したとおりもちろん顔面神経の所在位置を十分に知つていたし、それゆえ本件手術中顔面神経を損傷しないよう十分注意を払い、神経損傷は避けられたと考えていたから、本件手術後、原告の母から原告の左眼の閉鎖不全を訴えられた際左眼閉鎖不全の程度は軽度であり、原告の口唇部の麻痺の状況からみても原告の顔面麻痺の程度は不全麻痺の程度と診断し、その原因は、手術中出血を防ぐため腫瘤付近の血管を結索した結果生じた血流障害によるものと判断したのである。なぜなら、もし仮に顔面神経を根幹部において切断してしまつたとするなら、殆んどの場合に眼裂の増大、眼瞼が外に反転する兎眼症や患部側の口唇間が開きつ放しになつて健常部側へ牽引され、著るしい顔面の変形を来たす等、顔面神経の完全麻痺の症状をもたらす筈であるのに、そのような症状があらわれなかつたこともあつて、梅原医師は原告の右症状を不全麻痺と診断したものであり、右の諸事情を考え合わせれば、梅原医師の右診断が誤りであつたとはいえない。

(三)梅原医師は、原告の顔面の不全麻痺について本件手術後三か月位の間血行障害との診断に基づいて治療を施した後、顔面神経損傷の疑いを抱いて筋電図検査等を考慮したが本件病院の筋電計の故障等の事情があり、やむなく昭和五五年六月ころ、昭和大学付属病院形成外科へ診断を依頼したのであるが、原告の場合、顔面筋の萎縮や角膜障害が全くなかつたことから、切断された神経の再建のための手術は昭和大学病院において本件手術より約一一か月後に行われたのである。もし原告の顔面筋の萎縮、閉眼不能による角膜損傷等の症状があつたなら、顔面神経の再建の手術は、切断後六か月以内に行なう必要があつたであろうが、原告には右症状はなかつたのであるから、梅原医師が原告の顔面神経の切断に気付くのが遅れ、そのために右神経の再建が不能になつたものであるとはいえない。

3  損害について

(一)原告に生じた後遺症は、自動車損害賠償保障法施行令別表の後遺障害「一眼のまぶたに著るしい運動障害を残すもの」あるいは「男子の外貌に著しい醜状を残すもの」に該当すると思料されるので、後遺障害の等級は第一二級とするのが妥当である。右等級から判断すれば原告の労働能力喪失率は一四パーセントである。

(二)そして、原告は、大学卒業後一旦他企業に就職したもののほどなく退職し、家業の手伝いに従事して毎月一〇万円の報酬を受けていたのみで特に積極的な就職活動も行なつていなかつたのであるから、賃金センサス全国性別・年令階級別平均給与額表大卒男子労働者の同年令の年間給与額をそのまま適用するのは相当ではないというべきである。

第三  証拠《略》

【理 由】

一  請求原因1の(一)及び(二)の事実は当事者間に争いがない。

二  まず、被告の債務不履行責任の有無について判断する。

1(一)請求原因2の(一)ないし(三)の事実は当事者間に争いがない。

(二)同(四)の事実については、そのうちの昭和五四年一二月一四日に原告の左眼が開いたままであつたこと及び顔面神経が切断されていることは当事者間に争いがなく、《証拠略》によれば、その余の事実を認めることができる(《証拠略》によれば、原告の顔面神経が切断されていることが確定的に判明したのは、昭和五五年七月一五日と認められる。)。

(三)同(五)の事実については、そのうちの現在原告の顔面神経が切断されていることは当事者間に争いがなく、《証拠略》によれば、その余の事実を認めることができる。

2  そこで、本件手術施行の際の梅原医師の注意義務について考察するに、《証拠略》によれば、耳下腺腫瘍の治療はその摘出手術によつてなされるが、顔面神経は耳の下から発して(顔面神経が耳の下から発していることは当事者間に争いがない。)耳下腺の葉間を通ることから、右摘出手術の際は、同神経を露出させるなどして、同神経の損傷を避けるのが肝要であることが認められ、梅原医師に、同神経の所在位置を確知し、同神経を切断しないように充分注意をして本件手術を施行すべき義務があつたものと認めることができる。

なお、被告は、被告の主張1の(二)及び(四)において、本件腫瘍は悪性の疑いが強く、周囲組織との癒着も強いため、腫瘍のみを摘出することは困難であつた旨主張し、梅原医師もこれに副う証言をしているところ、そもそも《証拠略》の診療録に悪性の疑いがある旨が全く記載されていないことから、梅原医師がどの程度悪性の疑いを抱いていたか疑問のあるところではあるが、仮に、梅原医師が悪性の疑いを抱いていたとしても《証拠略》によれば、本件腫瘍は結果的に良性の混合腫瘍であつたこと、耳下腺腫瘍には良性と悪性があり、悪性の場合には広範な切除が必要とされるため顔面神経が損傷されることがあつてもやむを得ないとされているが、その場合も医師としては同神経と腫瘍の位置関係浸潤の有無、程度に留意し、同神経の損傷を可能な限り避けながら腫瘍を摘出すべきであることが認められるから、右の被告の主張も梅原医師の前記の注意義務の存否に影響を及ぼすものではない。

3  続いて、梅原医師が本件手術施行の際に顔面神経の所在位置を確知していたか否かについて判断する。

(一)《証拠略》を総合すれば以下の事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(1)耳下腺腫瘍摘出手術は本件病院では一年に一、二例の珍しい手術であり、梅原医師の本件手術前における耳下腺腫瘍摘出手術の経験は約一〇例と少ない。

(2)本件手術により摘出された腫瘍(腫瘤)は、縦五・五センチメートル、横四・五センチメートル、厚さ約二・五センチメートルの大きなもので、健常部に覆われて、耳介の下方の切除に際し耳の下方を通る顔面神経の根幹部をも切除することとなりやすい部位、位置に存在していた。そして、現実に本件手術により原告の顔面神経の根幹部が右腫瘍とともに切除されてしまつた。

(3)本件手術の日(昭和五四年一二月一三日)の翌日から原告の左眼瞼が少し開いているのが医師によつて確認され、同月一六日に左眼瞼及び口角の不全麻痺が、同月一七日及び一九日にも左顔面神経麻痺が梅原医師によつて確認され、それぞれ診療録に記載された。

(4)同月一九日梅原医師は、原告の顔面神経麻痺の症状を心配した原告の母親から説明を求められ、甲第二号証の略図を書いて右母親に説明した。右の略図には耳の下の本件手術により摘出された腫瘍の位置と耳の横から発して三本に分かれている神経の位置が図示され、両者は重なつていない。

(5)その後も原告の顔面神経麻痺の症状は継続していたが、梅原医師は、右症状の原因を本件手術の際に外頚動脈を結索したことによる血行障害と判断してビタミン剤等の投与を行い、原告が同月二五日に退院した後は、理学療法科を受診させて電気治療等を受けさせていたもので、昭和五五年三月ころに至つて、顔面神経の切断を疑い始めたものの、たまたま本件病院の筋電計が故障していたこともあつて同年六月ころまで神経筋疾患の診断に広く用いられている筋電図検査を行なわなかつた。梅原医師は、昭和五五年六月下旬に至り、ようやく昭和大学形成外科の赤川徹弥医師(以下「赤川医師」という。)に宛てて紹介状を書いた。

(6)顔面神経が切断された場合、六か月ないし一年以内に神経の縫合手術を行なわなけれが機能の回復は望めず、縫合手術までの期間が長くなればなるほど回復は困難になる。

(7)原告は同年七月赤川医師の診察を受けて顔面神経が切断されていると診断された。赤川医師は甲三号証の略図を書き、顔面神経の根幹部は耳の下を通つていて、本件手術によつて摘出された部位の同神経がなくなつていることを原告に対して図示説明した。

(二)右認定事実によれば、梅原医師が本件手術施行の際に顔面神経の所在位置を確知していなかつたことは明らかであるが、以下、この点に関する被告の主張や梅原医師の証言について念のために判断を示す。

(1)前(一)の(4)認定の事実に関し、被告は被告の主張1の(三)のとおり主張し、梅原医師も同趣旨の証言をしている。しかし、前(一)の(3)で認定したとおり、梅原医師は甲第二号証の略図を書いて原告の母親に説明した日以前に既に原告の顔面の異常が眼瞼部ばかりでなく口角や左顔面全体に及んでいることを認識していたのであるから、眼瞼部のみの神経を図示するのは甚だ不自然というほかはない。また、仮に眼瞼部のみの神経を図示したものとしても、その根幹部はやはり耳の下から発しているのであるから、本件手術に際し、梅原医師が顔面神経を切断しないように十分に配慮していたとすれば、たとえ略図であるとはいつても、甲第二号証の如く肝心の腫瘍の摘出部位について顔面神経の所在が不正確な図を作成することは不可解である。以上の理由により、右梅原医師の証言は到底措信できないことになる。

(2)前(一)の(5)認定の事実に関し、被告は被告の主張2の(一)ないし(三)のとおり主張し、梅原医師も同趣旨の証言をして同医師が顔面神経の切断を疑わなかつたとしてもやむを得ない事情があつた旨述べている。しかし、前2で認定したとおり、耳下腺腫瘍の摘出手術を施行するに際しては腫瘍の良性、悪性の判断と並んで顔面神経の損傷の有無が医師の最大の関心事であるべきものであることに加えて、《証拠略》の診療録には動脈の外側を走る直径一ミリメートル強の神経(《顔面神経》下顎縁枝と思われる。)を温存した旨の記載があるのに、摘出手術の経過や摘出標本の観察を記載した欄に顔面神経に関する記載が全く存しないこと、梅原医師が顔面神経の所在を確知していれば、前3の(一)の(3)認定の原告の症状が不全麻痺か完全麻痺かを判断するためには早急に筋電図検査をすべきであつたことが明らかであるのに、前(一)の(5)で認定したとおり、梅原医師が筋電図検査を怠つていたこと等も考慮すると、梅原医師が顔面神経の切断の疑いを抱かなかつたことに対する梅原医師の証言内容は不自然であり、ひいては梅原医師が顔面神経の所在位置を確知していたことを前提とする右証言内容自体信用できないことに帰する。

4  従つて請求原因2の(八)について判断するまでもなく、梅原医師が本件手術にあたり医師としての基本的な注意義務を欠き、その結果原告の顔面神経を切断したことは明らかであるから、被告には本件契約の不完全履行による債務不履行責任があり、原告が被つた後記損害を賠償すべき義務がある。

三  次に、原告の損害について判断する。

1  逸失利益

前認定の請求原因2の(五)の後遺症による原告の労働能力喪失率について検討する。

まず、ひとつの指標となりうる自動車損害賠償保障法施行令別表(以下「別表」という。)の後遺障害該当等級の点をみるに、労働者災害補償保険法における障害等級認定基準(昭和五〇年九月三〇日基発第五六五号、昭和六一年三月二六日改正のもの)第二の6(2)イ(ホ)によれば、顔面神経麻痺は神経系統の機能の障害ではあるが、その結果として現われる口のゆがみは単なる醜状として、また閉瞼不能は眼瞼の障害として取り扱うこととされているので、これを参考にすると、原告の後遺症は、別表の「一眼のまぶたに著しい運動障害を残すもの」及び「男子の外貌に著しい醜状を残すもの」に該当し、第一二級の後遺障害が二以上存する場合として、自動車損害賠償保障法施行令二条一項二号二により原告の後遺障害の等級は第一一級とするのが相当である。そして、《証拠略》によれば、原告は昭和二八年三月五日生まれの男性であり、昭和五〇年三月日本大学工学部電気工学科を卒業した後、プラスチック成型加工を業とする民間企業に一か月程勤務したものの、希望する職業ではないとして退職し、以後両親と同居しながら父親の経営する食品販売業甲野商店の手伝いをし、月額一〇万円の給料を得ながら希望の就職先を探していたところ、本件手術によつて前記の後遺症が残つたことから希望の職種に就職することが困難となつて現在まで右甲野商店の手伝いを続けている事実を認めることができる。以上の、別表における原告の後遺障害の等級、後遺症の部位・程度、原告の年齢・性別・経歴、本件手術の前後の稼動状況、後遺症による実収額の減少の有無・程度などを総合し、労働基準監督局通牒(昭和三二年七月二日基発第五五一号)も参考にすれば、原告の労働能力喪失率は一五パーセントと認めることができる。

次に、昭和五八年までに原告が得べかりし年間収入額について検討するに、前認定のとおり、原告は昭和五〇年五月ころから本件手術時である昭和五四年一二月まで年間一二〇万円の実収入しか得ていないが、経営者である親族と同居する家業労働従事者の逸失利益の正確な算定には困難な面があることや無職者との均衡、前記の後遺症がなかつた場合の転職の可能性やその職種などを考慮すれば、原告の得べかりし年間収入額としては賃金センサス第一巻第一表の産業計・企業規模計・学歴計・男子労働者の、原告の年齢に対応する平均年間給与額によるのが相当である。これを年度別に示すと昭和五五年は金二七四万二四〇〇円、昭和五六年は金二八八万二一〇〇円、昭和五七年は金二九七万八九〇〇円、昭和五八年は金三〇六万一〇〇〇円であるから、昭和五五年から昭和五八年までの原告の逸失利益は金一七四万九六六〇円となる。

計算式(274万2400+288万2100+297万8900+306万1000)円×0.15=174万9660円

更に前認定の原告の治療経過や現在の症状からすれば、昭和五九年以降も原告が六七歳になるまでの就労可能な三六年間は一五パーセントの労働能力の喪失が認められるので、昭和五九年の賃金センサスによつて得られる前同様の対応する平均年間給与額(三〇歳から三四歳)三九〇万二七〇〇円を基礎としてライプニッツ式によつて中間利息を控除して昭和五九年当時の現価を計算すると金九六八万六六九七円になる。

計算式 390万2700円×0.15×16.547=968万6697円

以上を合計すると原告の逸失利益は金一一四三万六三五七円となる。

2  慰謝料

《証拠略》によれば、原告は昭和五五年七月と同年一一月の二回にわたり昭和大学旗の台病院において顔面神経の縫合手術を受けたものの回復に至らず、昭和五六年九月と一一月の二回にわたり同病院で眼裂を狭める手術を受けたこと、原告の現在の顔の表情は左右のバランスが崩れた歪んだ状態であり、志望する就職もできず、結婚もしないで失意の状態にあることが認められ、これに前記の後遺症の部位、程度、治療の経過などを総合考慮すると、原告の精神的苦痛を慰謝するには金三〇〇万円を相当と認める。

3  弁護士費用

原告が本訴の提起と追行を弁護士である原告訴訟代理人両名に委任したことは当裁判所に顕著であるところ、本件事案の難易度、前記の認容額、本件訴訟の審理経過等諸般の事情を考慮すると、本件事故と相当因果関係に立つ損害としての弁護士費用は金一四〇万円を相当と認める。

四  よつて、原告の被告に対する本訴請求は、損害賠償金一五八三万六三五七円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日であることが記録上明らかな昭和五九年一一月一八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を、同免脱の宣言につき同条三項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 秋元隆男 裁判官 仲戸川隆人 裁判官 杉山愼治)

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